映画「タイタニック」のあれこれ
リアリティを追求した超大作
映画タイタニックではローズとジャックの物語やそれに関わる一部の人物以外は史実ができる限り忠実に再現されています。ジェームズ・キャメロン監督はリアリティを追及することにこだわり、一部ではミニチュアの模型も使用されたものの、多くの部分は本物のタイタニックを再現して構築された実物大のセットで撮影されました。
タイタニックを建造したハーランド・アンド・ウルフ社から提供された実際のタイタニックの設計図を基に一からタイタニックのレプリカが制作されました。このレプリカは外側だけで中には傾斜させるための装置が納められ、水槽に収めるために船首が削られたりしていますがほぼ実物大でした。このセットは風向きの都合で右舷を接岸した状態で制作されましたが、実際のタイタニックの出航時には左舷を接岸していました。それでも出航の様子を正確に再現するために看板の文字や衣装、役者の利き手にいたるまでのすべてを左右逆にし、撮影したフィルムを反転させるという手法がとられました。
また、船内についても設計図や写真などをもとに忠実に再現したセットが制作されました。絨毯や室内装飾、家具、照明器具、カトラリーや食器といった画面にはっきり映らない調度品や料理までも当時のものが再現されました。なお、スタントの際に危険がないようにゴムで作られた小物も多くありました。
さらに、映画でも登場するロシアの深海潜水艇のミールとその母船である科学研究船のアカデミク・ムスティスラフ・ケルディッシュを使用した12回も深海潜水調査で本物のタイタニックの残骸も撮影されました。海面下3800mに沈むタイタニックの残骸にたどり着くには片道10時間以上かかりました。
当初制作のために用意された資金は200万ドルでしたが、最終的な製作費は2億8600万ドルに達しました。
不沈のモリー・ブラウン
映画に登場し、夕食会に招待されたジャックを手助けしたマーガレット・ブラウンは実在のタイタニックの一等船客です。映画で現代のローズが「新興成金と呼ばれる連中の一人だった」と紹介するセリフがありますが、彼女はもともとは裕福ではありませんでした。
マーガレットは1867年にアイルランド移民の両親の間に生まれました。1886年にコロラド州の百貨店で働きはじめた彼女は同年鉱夫ジェイムズ・ジョゼフ・ブラウンと出会い、恋に落ちました。マーガレットは金持ちと結婚したがっていましたが、「富が魅力的な男性よりも貧しくても愛する男性と結ばれるほうが良い」として彼と結婚します。二人の間には2人の子が生まれました。
ジェイムズの鉱山工学の技術が、堅固な原鉱に割れ目を入れるのに役立つと認められたことで彼の雇用主であるアイベックス鉱山会社から株式と理事の席が与えられ、さらに金鉱が発見されたことで一家は一気に裕福になりました。
結婚から23年後の1909年に二人は別居してしまいましたが、二人は離婚はせず、終生互いを気遣ったといいます。1923年にジェイムズが亡くなると「彼ほど高潔で、心の広い、すばらしい男性はいなかった」と新聞の取材に答えています。
マーガレットは慈善活動家でもありました。女性の権利獲得のために活動し、まだ女性に参政権が認められていない時代でしたが、合衆国上院議員にも2度立候補しています。
1912年1月24日、マーガレットはオリンピックに乗ってパリにいる娘に会うためにフランスへ向かいました。その船内でジョン・ジェイコブ・アスター4世夫妻と親しくなり、夫妻の旅行に同行して数か月間エジプト、イタリア、フランスを旅しました。しかし、孫の病気の報を受けて急遽アメリカに帰ることにし、シェルブールからタイタニックに乗船しました。
タイタニックの沈没時、マーガレットは他の乗客が救命ボートに乗るのを手助けしたり、自らボートを漕いだり、海に投げ出されている乗客を助けるために沈没現場に戻ることを主張したりしたことが注目され、のちに「不沈のモリー・ブラウン(The Unsinkable Molly Brown)」として知られるようになりました。
タイタニックの生存者としての名声は労働者や女性の権利、子どもの教育、史跡の保存、タイタニックに乗船していた者たちの勇気と騎士道の記念といった彼女が深く心にかけた問題を宣伝するのに生かされました。マーガレットはタイタニックの沈没から20年後の1932年に脳腫瘍で亡くなりました。
ちなみに、映画では「モリー」として紹介されましたが、友人には「マギー(Maggie)」と呼ばれていたといいます。
ジャックが描く肖像画
タイタニックの名シーンの一つであるジャックがローズのヌードデッサンを描くシーンですが、セットがほとんど完成していなかったことに加えて緊張と初々しさを出すためにジャックを演じるレオナルド・ディカプリオとローズを演じるケイト・ウィンスレットが初対面の時に撮影されました。レオナルド・ディカプリオは緊張のせいか「カウチに横たわって」と言うべきところをセリフを間違えて「ベッドに…いや、カウチに横たわって」と言いましたが、監督がそれを気に入ってそのまま本編で使用されました。
また、ジャックが描く絵はジェームズ・キャメロン監督が描いたものです。この時ジェームズ・キャメロン監督とケイト・ウィンスレットも初対面であり、流石にヌードは頼めないと思ってビキニを着用して描かれました。
生き残ったパン職人
クライマックスのシーンで垂直になった船尾がいよいよ沈もうとしている時、隣で手すりにしがみ付いている男性とローズの目が合う場面がありますが、この男性も実在した人物がモデルとなっています。
この男性はチャールズ・ジョーキンというタイタニックの主任パン職人です。史実では彼は救命ボートへの乗り込みを手伝った後、生き延びることを諦めて死の苦痛を和らげるために食品庫に籠ってウイスキーを飲んでいましたが、船が裂けた後に船尾にたどり着いて最後の瞬間まで船上に残り、海に投げ出されたものの救命ボートまでたどり着いて助かったと伝えられています。
映画でも沈もうとしている船尾でボトルを口にしている場面や、本編には採用されませんでしたが、カットされたシーンでは酒を飲みながら浮き具の代わりにするためのデッキチェアを船外に投げところも描かれています。
エンディングシーンの写真立て
タイタニックのエンディングはローズがタイタニックの大階段で、タイタニックに乗っていた人たちに迎えられながらジャックと再会するという場面ですが、この場面はローズが亡くなりジャック達がいる天国に行った、もしくは単なる夢であるという2つの説があり、論争の的になりました。ジェームズ・キャメロン監督はどちらの解釈が正しいのか決めているそうですが、「観た人それぞれで解釈してほしい」と言って答えを出していません。
この感動的なシーンに隠れてあまり目立ちませんが、その直前の現代のローズが眠っている場面も大事な意味があります。この場面ではローズの枕元にある写真立てが大きく映し出されますが、この写真には海辺で馬に跨ったローズが映っています。物語の序盤、タイタニックの遊歩デッキを歩いているローズとジャックが
「サンタモニカでジェットコースターに吐くまで乗って、安いビールを飲んで、浜辺で馬に乗ろう。横座りではなく、カウボーイのように馬に跨って...」という会話をしますが、この写真はローズがこれを実現し、ジャックの言った通りローズが自由な人生を生きたことがわかる演出です。
冒頭でローズがヘリコプターで調査船にやってきた場面の後にも、写真ははっきりと映されないものの「旅行の時はいつも写真を持ち歩くの」というセリフがあり、これらをローズが大事にしていたということも示されています。
カットされたシーンと本当は違ったエンディング
3時間にもなる長編映画のタイタニックですが、撮影されたにも関わらず本編では使用されなかったシーンが多くあります。カットされたシーンには以下のようなものがあります。
- 出会いの翌日にローズがジャックを三等船客のエリアに探しに行く
- ”本当のパーティー”の後にジャックがローズを一等船客のエリアに送る
- ローズとジャックがボイラー室で抱擁する
- 氷山と衝突した直後にローズとジャックが甲板で戯れ合う
- イズメイ社長が錯乱して船員に怒鳴りつけられる
- ストラウス夫妻が船に残ることを決める
- ファブリッツィオとヘルガが別れる
- 浸水するレストランまで追いかけてきたラブジョイとジャックが格闘する
- 通信士が避難を拒んで遭難信号を送信し続ける
- 現場に戻った救命ボートが男性生存者を拾い上げる
- 生存者がカルパチアに乗り込む
以上はカットされた場面の一部ですが、多くの場面がカットされています。これらは上映時間の都合だけでなく、秘密裏に行われた試写会での反応も見てカットすることが決められました。カットされた場面はDVDの特典として収録されています。
他にカットされた場面としては、採用されなかった別のエンディングがあります。
本編では現代のローズが調査船の船尾から誰にも気づかれずに「碧洋のハート」を海に落とし、床に就いたローズが映し出されるという流れで物語が終わります。一方、採用されなかったエンディングでは、ローズが調査船の船尾で柵に上がろうとしているローズをローズの孫やロベットが見つけて駆けつけ、そこで「碧洋のハート」をローズがずっと持っていたことが発覚、そしてローズが本当に価値があるのは人生そのものだと説いて皆の前で海に投げます。その後は本編と同じです。
後から公開されたこのエンディングは評判が悪く、もしこのエンディングが採用されていたら今ほどこの作品が評価されることはなかっただろうといわれています。
予定外だった主題歌
主題歌であるセリーヌ・ディオンが歌う「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」は映画とともに大ヒットとなりましたが、もともとジェームズ・キャメロン監督はフルボーカルの主題歌を作ることに反対しており、主題歌は制作される予定がありませんでした。
しかし、音楽を担当したジェームズ・ホーナーは劇中でいくつかのシーンに使用された曲にボーカルをつけたいと思い、監督には秘密裏に作詞家のウィル・ジェニングスに作詞を依頼しました。唄を依頼されたセリーヌ・ディオンはあまり乗り気ではありませんでしたが、マネージャーで夫でもあるレネ・アンジェリルの説得でデモテープを収録することになりました。
ジェームズ・ホーナーはジェームズ・キャメロン監督の機嫌がいい時を待ってこの曲を提案し、何度かデモテープを聴いた監督はこれを気に入って採用することにしました。映画のエンディングでは一発レコーディングされたデモテープがそのまま採用されたといわれています。
本物の「タイタニック」のあれこれ
タイタニックの姉妹船
タイタニックは「オリンピック級客船」と呼ばれる3隻の客船の1隻であり、2隻の同型船がありました。
船名 | 全長 | 総トン数 | 運航期間 | 最期 |
---|---|---|---|---|
オリンピック (RMS Olympic) |
269.1m | 45324GRT | 1911-1935 | 解体 |
タイタニック (RMS Titanic) |
269.1m | 46328GRT | 1912-1912 | 沈没 |
ブリタニック (HMHS Britannic) |
269.06m | 48158GRT | 1915-1916 | 戦没 |
オリンピック級客船はホワイト・スター・ラインがライバルであるキュナード・ラインが運航するルシタニアとモーリタニアに対抗するために構想されました。ルシタニアとモーリタニアは大西洋横断航路に就航していた姉妹船で、当時最大で最速の客船でした。当時台頭していた豪華で高速なドイツ客船に対抗するために国の威信をかけて建造されたこの2隻は最新の蒸気タービンを4基搭載する高速客船で、建造と運航にあたっては戦時に軍が徴用することを条件に国から補助金を受けていました。一方でオリンピック級客船はこれらの2隻とは異なり、輸送能力の増大や運航費用の低減によって補助金なしで採算がとれるように設計されていました。速度はルシタニアやモーリタニアに及ばないものの、オリンピック級は大きさと豪華さを追及した客船となりました。ちなみにモーリタニアは大西洋を最速で横断した船に与えられる「ブルーリボン賞」を20年間も保持するほどの速力がありましたが、オリンピック級客船の約1.5倍の石炭を消費しました。
オリンピック級客船は同型船ではありましたが、まったく同じではありませんでした。予算や造船所のドックの都合で1番船のオリンピックと2番船のタイタニックの2隻が先に建造が開始されましたが、先に完成して就航したオリンピックでの改善点を受けてタイタニックにはいくらか設計が変更されました。例えば、オリンピックではAデッキの一等船客用の遊歩甲板全体がベランダ状の吹きさらしとなっていましたが、タイタニックでは前半部分に覆いがつけられて半室内にされました。また、オリンピックではBデッキも海に面した部分全体に遊歩甲板がありましたが、タイタニックではこれを廃して代わりに一等客室が増設されています。これらの改良によってタイタニックはオリンピックを超えて総トン数で世界最大の客船になりました。
また、オリンピックが進水した後の1911年に起工した3番船のブリタニックはその翌年のタイタニック沈没を受けて信頼回復のために大幅に変更が加えられました。タイタニックは船底だけが二重でしたが、ブリタニックでは側面も二重にされました。また、タイタニックでは防水隔壁が海面よりわずかに高いEデッキまでしかありませんでしたが、ブリタニックでは15か所の防水隔壁のうち6か所が3階上のBデッキまでかさ上げされました。さらに、タイタニックの沈没で問題になった救命ボートはタイタニックの2倍以上で全乗船者を乗せるのに十分な48艘が搭載され、上部の甲板は救命ボートで埋め尽くされました。また、救命ボートを素早く下せるように設置されたクレーンのように大きな電動のつり柱も外見の大きな特徴となりました。これらの改良によってブリタニックはオリンピック級客船の中で総トン数で最大となりましたが、完成した1915年にはすでにより大きなインペラートルが登場していたため、世界最大とはなりませんでした。
ブリタニックが完成した時にはすでに第一次世界大戦が勃発しており、ブリタニックは完成後してそのままイギリス海軍に徴用されて病院船として使用されることになります。1916年、ブリタニックは病院船として地中海を航行中に機雷に接触しました。ブリタニックはタイタニックと同じ状況になっても沈まないように設計されていましたが、規則に反して舷窓が開けられていたことや防水扉が正しく閉じられなかったことなどの悪条件が重なってこれを生かすことができませんでした。完成後そのまま徴用されたため、ブリタニックは一度も客船として運航されることはありませんでした。
短命だった姉妹船の2隻とは異なり、1番船のオリンピックは24年にもわたって運航されました。オリンピックは就航当初に防護巡洋艦ホークと衝突事故を起こしましたが、修理されて復帰し、タイタニックの沈没後には船体の二重化や防水隔壁のかさ上げが行われ、救命ボートも20艘から68艘にまで増やされました。第一次世界大戦を生き延びたオリンピックも軍用輸送船として徴用されていましたが、攻撃を仕掛けてきた潜水艦を返り討ちにして沈めるなどの伝説も残しました。戦後は客船として大西洋横断航路に復帰し、ホワイト・スター・ラインがライバルだったキュナード・ラインと合併した翌年の1935年に引退するまで運航されました。
3隻の姉妹船が建造されることになったは大西洋を横断するのに7日かかり、大西洋の両側から効率的に週1便運航するためには3隻必要だったためです。ライバルのキュナード・ラインも3隻体制で運航するためにのちにアキタニアを建造しています。ルシタニアやモーリタニアとは異なり、アキタニアはオリンピック級客船と同じコンセプトの豪華で大きい客船として建造され、総トン数はオリンピックよりも小さかったものの、長さはオリンピックを超えました。
ブリタニックが完成する前にタイタニックが沈没してしまったため、オリンピック級客船が3隻揃うことは一度もありませんでしたが、残されたオリンピックは大戦の終戦後にドイツから戦後賠償として引き渡されたマジェスティックとホメリック(RMS Homeric)とともに3隻体制で運航されました。
「世界最大の客船」
映画内では「誰にもまねできない」などとことさらにタイタニックの巨大さが強調されていました。タイタニックが世界最大の客船であったことは事実ですが、実はタイタニックだけが特別大きかったわけではありません。
以下では世界最大の客船の移り変わりを示しています。
船名 | 運航会社 | 全長 | 総トン数 | 就航年 |
---|---|---|---|---|
・・・ | ||||
バルチック (RMS Baltic) |
ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
222.2m | 23876GRT | 1904 |
カイザリン・アウグステ・ヴィクトリア (SS Kaiserin Auguste Victoria) |
ハンブルク・アメリカ・ライン (ドイツ) |
206.5m | 24581GRT | 1906 |
ルシタニア (RMS Lusitania) |
キュナード・ライン (イギリス) |
239.9m | 31550GRT | 1907 |
モーリタニア (RMS Mauretania) |
キュナード・ライン (イギリス) |
240.8m | 31938GRT | 1907 |
オリンピック (RMS Olympic) |
ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
269.1m | 45324GRT | 1911 |
タイタニック (RMS Titanic) |
ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
269.1m | 46328GRT | 1912 |
インペラートル (SS Imperator) |
ハンブルク・アメリカ・ライン (ドイツ) |
276m | 52117GRT | 1913 |
ファーターラント (SS Vaterland) |
ハンブルク・アメリカ・ライン (ドイツ) |
289.6m | 54282GRT | 1913 |
マジェスティック (RMS Majestic) |
ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
291.4m | 56551GRT | 1922 |
ノルマンディー (SS Normandie) |
フレンチ・ライン (フランス) |
313.6m | 79280GRT | 1935 |
クイーン・メリー (RMS Queen Mary) |
キュナード・ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
310.7m | 80774GRT | 1936 |
クイーン・エリザベス (RMS Queen Elizabeth) |
キュナード・ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
314.2m | 83673GRT | 1946 |
フランス (SS France) |
フレンチ・ライン (フランス) |
315.66m | 66343GRT | 1962 |
・・・ | ||||
クイーン・メリー2 (RMS Queen Mary 2) |
キュナード・ライン (イギリス) |
345.03m | 149215GT | 2004 |
・・・ | ||||
シンフォニー・オブ・ザ・シーズ (Symphony of the Seas) |
ロイヤル・カリビアン・クルーズ (アメリカ) |
361.011m | 228081GT | 2018 |
タイタニックは3隻建造されたオリンピック級客船の2番船であり、タイタニックの航海の前年にはすでにオリンピックが就航しています。オリンピックはタイタニックより総トン数が小さいものの、大きさは同じでした。ちなみに映画ではローズがタイタニックに乗船する前にタイタニックを見て「モーリタニア号と変わらないわ」と言いますが、オリンピックが就航するまではモーリタニアが世界最大でした。
タイタニックが沈没してオリンピックが再び最大の客船となりましたが、翌年にはインペラートル、翌々年にはファーターラントとすぐに記録が塗り替えられているほか、アキタニアなどのタイタニックとあまり大きさが変わらない船も登場しています。
4本煙突のタイタニック
タイタニックは4本の煙突が特徴的ですが、実は一番後ろの煙突はダミー的なものでした。タイタニックはスクリューを回すレシプロエンジンを稼働させるために6カ所のボイラー室があり、煙突にはそれぞれ2か所のボイラー室からの煤煙が排出されました。つまり本当に必要な煙突は3本だけでした。4本目の煙突は他の煙突とは異なり、調理室や暖炉、エンジン室からの煙を換気するために使用されました。映画でもこれが再現されており、よく見るともくもくと黒煙が出ている3本の煙突に比べて4本目の煙突からは少ししか煙が出ていません。
4本目の煙突には美観を改善する意図もありました。換気能力の向上はルシタニアとモーリタニアのように上部の甲板が換気口だらけになるのを防ぎました。また、蒸気機関でスクリューを回していた当時の船では船体が大きくなるにつれて蒸気を発生させるボイラーの数も増加し、その煤煙を排気する煙突の数が増えていきました。それゆえ、煙突の数は船のスピードや壮大さを象徴するものともされました。ライバルであるルシタニアとモーリタニア、ドイツのカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセといった当時を代表する客船は4本煙突であり、このトレンドに習ってタイタニックを含むオリンピック級客船は4本目の煙突が追加されました。
以下は4本煙突の客船の一覧です。
船名 | 運航会社 | 全長 | 最期 | 運航期間 |
---|---|---|---|---|
カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ (SS Kaiser Wilhelm der Grosse) |
ノートドイッチャー・ロイド (ドイツ) |
200m | 戦没 | 1897-1914 |
ドイッチュラント (SS Deutschland) |
ハンブルク・アメリカ・ライン (ドイツ) |
207.2m | 解体 | 1900-1925 |
クロンプリンツ・ヴィルヘルム (SS Kronprinz Wilhelm) |
ノートドイッチャー・ロイド (ドイツ) |
202.17m | 解体 | 1901-1919 |
カイザー・ヴィルヘルム2世 (SS Kaiser Wilhelm II) |
ノートドイッチャー・ロイド (ドイツ) |
215.27m | 解体 | 1903-1919 |
クロンプリンツェッシン・ツェツィーリエ (SS Kronprinzessin Cecilie) |
ノートドイッチャー・ロイド (ドイツ) |
215.29m | 解体 | 1907-1919 |
ルシタニア (RMS Lusitania) |
キュナード・ライン (イギリス) |
239.9m | 戦没 | 1907-1915 |
モーリタニア (RMS Mauretania) |
キュナード・ライン (イギリス) |
240.8m | 解体 | 1907-1934 |
オリンピック (RMS Olympic) |
ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
269.1m | 解体 | 1911-1935 |
タイタニック (RMS Titanic) |
ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
269.1m | 沈没 | 1912-1912 |
フランス (SS France) |
フレンチ・ライン (フランス) |
217m | 解体 | 1912-1935 |
アキタニア (RMS Aquitania) |
キュナード・ライン (イギリス) |
274.6m | 解体 | 1914-1950 |
ブリタニック (HMHS Britannic) |
ホワイト・スター・ライン (イギリス) |
269.06m | 戦没 | 1915-1916 |
アランデル・キャッスル (RMS Arundel Castle) |
ユニオン・キャッスル・ライン (イギリス) |
201m | 解体 | 1921-1958 |
ウィンザー・キャッスル (RMS Windsor Castle) |
ユニオン・キャッスル・ライン (イギリス) |
201m | 戦没 | 1922-1943 |
4本煙突のトレンドはあまり長くは続かず、1913年にオリンピックを抜いて世界最大の客船となったインペラートルの煙突は3本でした。後に続く大型客船も煙突は3本もしくは2本で次第に数が減り、蒸気機関ではなくなった現代の大型客船の煙突はほとんどの場合1本だけです。
最後まで残った4本煙突の客船はアキタニアです。アランデル・キャッスルとウィンザー・キャッスルは1930年代になって改装された際により近代的な装いにするために煙突が2本になり、他の4本煙突の客船は老朽化のためにその多くが1930年代までに引退していますが、アキタニアは1950年に引退するまで4本煙突のままでした。
無視された氷山の警告
映画内でも氷山の警告が船長に届けられ、氷山の危険を軽視したことを印象付ける場面があります。
実際にもタイタニックには幾度も他の船から氷山についての報告が届けられていましたが、それほど重要視はされませんでした。今となってはこれは無謀で非難されるべきことですが、実は当時は氷山は大型船にとっては大した危険ではないと信じられており、定時運行が最優先された当時の北大西洋横断航路の定期船では氷山のある海域でも減速しないのは標準的な航海慣習でした。氷山を直前で躱すこともそれほど珍しいことではなく、氷山と衝突しても大事故になったことはありませんでした。現に、ドイツの客船であるクロンプリンツ・ヴィルヘルムが1907年に氷山と衝突した時には船首が大破したものの航海は続けられました。
なお、実際には氷山の報告を受けて何もしなかったわけではなく、船長は航路を南寄りに変更しています。
また、当時の客船の無線業務は乗客の電報を地上の通信所とやり取りすることがメインであり、気象などについての報告はそのついででした。このことも氷山の危険が見過ごされた一因であるとみられています。沈没の日には船橋に伝達された報告以外にも幾度も他の船から氷山についての報告がありましたが、前日の無線機器の影響で通信士は乗客の電報の処理に忙殺されており、これらの報告は見過ごされました。ちなみにタイタニックの通信士は船員ではなく、通信会社の社員でした。
足りなかった救命ボート
タイタニックには20艘の救命ボートが搭載されていましたが、これらの定員の合計は1178名でした。これはタイタニックの最大定員である3547名、沈没時に乗船していた2208名を乗せるのにも全く足りませんでした。
実はタイタニックには64艘の救命ボートを搭載できる空間がありました。設計段階では最大数の64艘や32艘救命ボートを搭載することが提案されたこともありましたが、一等船客の遊歩甲板が狭くなるのを嫌って最終的に16艘まで減らされ、折り畳み式のボート4艘と合わせて合計20艘になりました。
タイタニックの救命ボートのうち16艘はつり柱に繋がれて搭載されていました。標準型の救命ボートは14艘で、これらの定員は65名でした。他に2艘のカッターボートが搭載され、これらは救命ボートが搭載された甲板のうち一番前に搭載され、平時にも人が船から落ちた時などに使用することが想定されていたのですぐに下ろすことができるようにカバーがかけられず、船の外側に吊るされていました。これらの2艘は標準の救命ボートよりも一回り小さく、定員は40名でした。
折り畳み式のボートは標準型の救命ボートよりも浅い筏のような造りで、まわりにつけられた帆布を展開することでボート状にすることができました。定員は47名です。4艘の折り畳み式ボートのうち2艘は他の救命ボートと同じ甲板にありましたが、残りの2艘は一段高い船員室の屋根の上に搭載されており、下すには船首部分に収納された道具が必要でした。しかし、沈没時にはこれらのボートを下ろそうとしたときにすでに船首が水没してしまっていたため人力で屋根の上から落すことになり、映画でもその様子が描かれています。
タイタニックの沈没後に救命ボートの不足は大きな問題とされましたが、タイタニックが特別安全を軽視した船であったわけではなく、当時としては一般的なことでした。当時のイギリス商務庁による法規では1万トン以上の商船は合計960名以上乗せられる16艘以上の救命ボートを搭載することが義務付けられていました。つまり、タイタニックは当時の義務付けられていた数以上の救命ボートを搭載していたことになります。しかし、この法規は1万トン前後の船を想定したものであり、タイタニックのような4万トンを超える客船が出現したこの時期にはすでに時代遅れのものでした。イギリス船籍の商船では当時1万トンを超える汽船が39隻運航されていましたが、そのうち乗船者全員を乗せるのに十分な救命ボートを搭載していたのはわずか6隻であり、この6隻は1万トンを少し超える程度の大きさのものでした。
また、交通量が多い航路では船が沈没するような事態になっても他の船が救助に駆けつけることができるので救命ボートは救援船との間を往復するためものという見方が強くあり、すべての乗船者を一度に乗せられる必要はないとみなされていたことも十分な数の救命ボートを搭載することの妨げになりました。とはいえ、タイタニックの乗客の救助に駆け付けた最初の船であるカルパチアは生存者を収容し終えるまでに4時間半もかかっており、沈没前に救援船がたどり着いていたとしても少ない数の救命ボートでは乗船者全員の救出は困難を極めたとみられます。
タイタニックの沈没を受けてこれらの慣習は見直され、船には乗船者全員を乗せるのに十分な救命ボートが搭載されるようになりました。
なお、多くの乗員が救命ボートの扱いに慣れていなかったうえにその統率もうまくいかなかったことから、例え乗船者全員を乗せられる数の救命ボートがあったとしても全員救命することはできなかったのではないかとする見方もあります。現に搭載していた20艘の救命ボートでさえすべてを正しく進水させることはできませんでした。
閉じ込められた三等船客
映画では三等船客が通路にあるゲートに避難を妨げられる場面が何度か描かれています。このゲートは沈没時に救命ボートに殺到しようとする三等船客を阻むために閉じられたものではなく、もともと閉じられているものでした。
なぜこのようなゲートが通路にあったのかというとアメリカの移民に関する法令で防疫のために三等船客を一等船客と二等船客から隔離するように求められていたからです。三等船客はニューヨークでもメインの埠頭ではなく移民局のあるエリス島で下船して検査を受ける必要がありました。そうしてタイタニックの船内では平時から三等船客は一等船客と二等船客のエリアから完全に分離されていました。
生存者の証言から少なくとも数か所では客室係が救命ボートに殺到するのを防ぐために積極的に三等船客を閉じ込めていたということがわかっています。しかし、何度も三等客室まで戻って三等船客を救命ボートまで誘導した客室係もおり、ゲートを開けるために船内の下層部に下りて水に呑まれて戻らなかった船員もいたといいます。
また、二等客室と三等客室を担当する客室係は非常に多くの乗客を誘導しなければならず、乗客への支援は限られました。さらに、乗員も乗客もその多くが浸水が進むまで事態の深刻さを理解しておらず、避難誘導が滞った結果多くの乗客が船内に閉じ込められることになりました。
船内の下層の船首と船尾にあった三等客室は救命ボートからは一番遠いところにあり、迷路のような船内の構造も三等船客が救命ボートにたどり着くのを妨げました。
生存者を救助した船
映画では朝焼けの中救命ボートが救援に来た船に近づいていき、ローズが船体に書かれたCARPATHIAの字を見上げる場面が描かれますが、この船も実際にタイタニックの生存者を救助した船が描かれています。
タイタニックの沈没地点に最初に駆け付けた船はキュナード・ラインが運航する客船のカルパチア(RMS Carpathia)でした。
カルパチアはタイタニックがサウサンプトンを出港した翌日の4月11日にニューヨークを出港してオーストリア=ハンガリーのフューメ(現在のクロアチアのリエカ)へ向けて航行していました。出航から3日目の夜、タイタニックからの救援要請を受けた通信士はこのことを船橋に報告しましたが、事の深刻さについて懐疑的な船員が多かったため、急いで船長室に行って船長起こしてをこのことを伝えました。すると船長はすぐに引き返すことを命じました。カルパチアは石炭をくべる火夫と氷山に警戒する見張りを増員し、暖房用の蒸気を止めて船を動かすための蒸気をできる限り増やすことで設計上の最高速度を超える速度でタイタニックの位置まで向かいました。
それでも107kmも離れた場所にいたカルパチアがタイタニックまでたどり着くには3時間半かかり、すでにタイタニックが海面から消えてから1時間半経っていました。タイタニックの20艘の救命ボートを発見したカルパチアは4時間半かけて705名の生存者を収容しました。タイタニックの生存者は毛布やコーヒーを提供され、もともとのカルパチアの乗客も暖かい飲食物や寝る場所を提供したり、温かい言葉をかけたりしました。
カルパチアの船長はタイタニックの目的地であったニューヨークに引き返すことを決め、4日後の4月18日に雨が降る中ニューヨークに入港しました。のちにこの救助の功績に対し、カルパチアの乗員にはメダルが授与され、船長はマーガレット・ブラウンから銀杯と金メダルが授与されました。
カルパチアはタイタニックの生存者をニューヨークに送り届けた後、急いで補給を済ませて本来の目的地へ向けて再び出航しました。カルパチアはタイタニックの沈没から6年後、第一次世界大戦末期の1918年にアイルランド沖で潜水艦の攻撃を受けて沈没しました。