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日本から14000km、南極へ渡る南極観測隊のあれこれ

記事Nov.26th, 2022
日本から14000km離れた南極大陸へ渡る南極観測隊について。

南極大陸へ渡る南極観測隊

南極地域観測隊とは?

南極地域観測隊(JARE、“Japanese Antarctic Research Expedition”)は文部科学大臣を本部長とする南極地域観測統合推進本部が主導して南極へ派遣している調査隊で一般的には“南極観測隊”と呼ばれています。

南極観測隊は南極に設営した昭和基地を拠点として気象や地質、地磁気、生物、海洋などのさまざまな観測活動を行っており、その中でも大きな功績のひとつが「オゾンホール」の発見と言われています。

南極観測隊の運営の中心となるのは国立極地研究所であり、隊員は基本的に公務員の扱いとなります。民間企業から参加する隊員もいますが、多くの場合は出向によって一時的に公務員扱いとなります。観測隊員以外にも民間の研究者や技術者、報道関係者などが参加することもありますが、「同行者」として「隊員」とは区別されます。

また、南極観測隊の隊員は「夏隊」と「越冬隊」に分けられます。夏隊は南極観測船で南極に渡った後、そのまま帰りの観測船に乗って帰国しますが、越冬隊は翌年の南極観測船が来るまで南極に滞在して観測活動を行います。

南極への渡航

南極観測隊は南極観測船「しらせ」に乗って南極に渡ります。「しらせ」は文部科学省の予算で建造されていますが、海上自衛隊に所属していて、「南極地域観測協力」として海上自衛隊が運航しています。

「しらせ」

「しらせ」は例年11月中旬ごろに日本を出発します。この時乗船しているのは基本的に「しらせ」の乗組員で、観測隊は飛行機でオーストラリアのフリーマントルへ向い、そこで寄港した「しらせ」に乗り込みます。

例年「しらせ」が出航する時には式典が開かれ、ニュースなどで見送りの様子が報道されます。2019年の第61次観測隊までは晴海客船ターミナルから出発していましたが、晴海客船ターミナルが廃止されたので2022年の第64次観測隊は新ターミナルの東京国際クルーズターミナルから出発しました。東京国際クルーズターミナルのそばには初代南極観測船「宗谷」が係留されており、「安航を祈る」の意味で用いられるUW旗を掲揚して「しらせ」を見送りました。

フリーマントルには約2週間後に入港し、観測隊の乗船と補給ののち再び南極へ向けて出港します。数日で南緯55度以南の南極圏に入ります。昭和基地はフリーマントルの真南にあるわけではありませんが、洋上での観測も行うためそのまま南下します。65度まで南下すると海面を氷が覆うようになるのでその手前で西へ進路を変え、昭和基地へ近づくと海氷を砕きながら進むことになります。12月下旬から1月はじめごろには南極の昭和基地沖に到着します。南極は日本とは季節が逆なのでこのころが一番接近しやすい夏季になります。

「しらせ」が昭和基地に近づくと、「しらせ」に搭載されたCH101大型ヘリコプターによって優先度の高い物資が昭和基地へ運ばれます。

その後、昭和基地沖に「しらせ」が接岸すると空輸できない大きな資材が海面の氷の上を雪上車を用いた氷上輸送で運ばれます。海氷の厚みが1.5m程度あれば雪上車による輸送に耐えられるとされています。氷上輸送は5日程度かかりますが、悪天候で実施できない日もあるため実際には1週間以上かかることもあります。

なお、「接岸」というと一般的には岸壁などに直接船を横付けすることを言いますが、昭和基地には港があるわけではないので、この場合は昭和基地にある燃料タンクからのパイプが届く1000m以内に「しらせ」が接近することを「接岸」と言います。雪上輸送が終わると残りの物資がヘリコプターですべて運ばれます。

この間、この先1年に必要となる食材や機材、燃料など物資の搬入が行われるほか、前年からの越冬隊とこれから1年間滞在する越冬隊の交代が行われます。また、南極で生じた廃棄物は日本に持ち帰って処理することになっているため、この時「しらせ」に積み込まれます。

1月後半には「しらせ」は昭和基地沖を離れ、途中シドニーで一足先に飛行機で帰国する観測隊が下船した後、3月ごろ横須賀に帰還します。

砕氷艦の仕組み

砕氷艦である「しらせ」は厚さ1.5mの海氷を連続で割りながら3ノット(約5.6km/h)で進むことができます。

どのようにして氷を割っていくかというと氷の上に船首を乗り上げて、船体の重さで氷を砕きます。そのため、「しらせ」の船首は喫水線付近が段になっていて、氷に乗り上げて割るのに最適化した形状になっています。

「しらせ」の船首

また、助走をつけてさらに厚い氷を割る「ラミング(“Ramming”)」を繰り返して航路を切り開くこともあるほか、船首から水を散水して氷を割りやすくする工夫も取られています。

それでも「しらせ」が砕くことのできる海氷の厚みには限度があるため、国立極地研究所から届く衛星写真や搭載したヘリコプターから得られた情報をもとにして氷が最も少ないルートを模索して進んでいきます。

吠える40度、狂う50度、絶叫する60度

南極に渡るにはその周りを囲む南緯40度から60度付近にある暴風圏の輪を通らなければなりません。この海域は猛烈な暴風と波浪が船を襲い、緯度が上がるにつれて猛烈な嵐になるため「吠える40度、狂う50度、絶叫する60度("Roaring Forties, Furious Fifties, Screaming Sixties")」とも呼ばれます。

ただでさえ荒れるこの海域ですが、砕氷艦は一般的な船と比べて横揺れしやすく、この海域の通過時には激しい横揺れに見舞われます。初代南極観測船「宗谷」は最大62度、2代目南極観測船「ふじ」は最大45度傾いたという記録が残されています。3代目南極観測船の「しらせ」(初代)も2001年に左に53度、右に41度も傾いたという記録が残っており、これは現在までのところ海上自衛隊の艦船として最大の動揺記録となっています。

なぜ砕氷艦がこれほどまでに揺れるのかというと、ほとんどの船にはある横揺れを抑止するためのビルジキールがないからです。ビルジキールは船底の両側面につけられたフィンのことですが、船体を海氷にぶつけながら航行する砕氷艦では破損してしまうためビルジキールをつけることができません。

現在の南極観測船「しらせ」(2代目)には横揺れを軽減するための新型の横揺れ防止装置が搭載されています。それでも、船乗りである海上自衛官はまだしも、船慣れしていない南極観測隊の隊員は激しい船酔いに悩まされるといいます。

南極での生活

初期の南極観測では生活は厳しいものでしたが、現代では昭和基地でも日本とあまり変わらない生活ができるとされています。

お風呂とトイレは共同であるものの、1人4畳の部屋が割り当てられ、床暖房もあって屋内は暖かく保たれています。お風呂と洗濯機は24時間いつでも利用可能です。

基地内で通貨は不要であり、飲食物はすべて無料で提供されます。補給が年に1度だけであることから食材は限られますが、冷凍技術の進歩によって今ではバラエティーに富んだ料理を提供できるようになっています。当初からモヤシやカイワレダイコンが栽培されてきましたが、現在は発電機の余熱を利用した野菜栽培室があり、イチゴなども栽培されるようになっています。お菓子やコーヒーなどの嗜好品は個人で持ち込んでいる隊員もいて、隊員間で物々交換されることもあるようです。

昭和基地には衛星回線を使用した公衆電話もあり、日本本土に電話をかけることもできます。プライベートの電話をかける場合は電話料金は隊員の自腹となりますが、立川市にある国立極地研究所の内線電話扱いとなっているため、料金は立川市から通話先までの国内料金になります。また、インターネットを欠かすことができない現代ですが、南極も例外ではなく観測データの日本本土のサーバーへの送信や情報収集、学校や科学館などへの映像配信などに利用するためのネットワーク環境が整備されています。他にも銀座郵便局昭和基地内分室が置かれ、日本国内と同料金で手紙やハガキのやり取りを日本本土と行うこともできますが、郵便物が配送されるのは「しらせ」が接岸する年1回だけです。「しらせ」船内にも船内郵便局があります。

南極での生活は変化に乏しく単調であるため、スポーツ大会や手作りの桜の造花を飾るお花見会など隊員の発案によって趣向を凝らしたイベントも開催されます。

基本的に生活に関することは何でも自分で行わなければならない上に人手も限られるため、一人の隊員が複数の業務を兼ねることもあります。例えば、医師も重機の操作や観測機器の設営などを行ったりします。

極地研究所のウェブサイトでは南極観測隊の活動を紹介する観測隊ブログが比較的高い頻度で更新されており、南極での生活の様子を垣間見ることができます。

空から南極へ

基本的に南極観測隊の隊員は「しらせ」に乗って南極に渡りますが、年によってはDROMLANを利用して空路で南極に渡る隊員もいます。

DROMLANは“Dronning Maud Land Air Network”の略で、ドロイングモードランド地域にあるトロール飛行場を拠点とした航空網です。この地域に基地を持つ各国共同のプロジェクトであり、日本以外にはベルギー、フィンランド、ドイツ、インド、オランダ、ノルウェー、ロシア、南アフリカ、スウェーデン、イギリスが参加しています。DROMLANは主に南アフリカのケープタウン国際空港からのIl-76やC-130などの大型輸送機による輸送と、南極内の各国の基地を結ぶBT-67やDHC-6などの小型プロペラ機による輸送からなります。

先遣隊はまず6時間かけてケープタウンからノボラザレフスカヤ基地の近くにあるノボ滑走路と呼ばれる雪上滑走路へ飛び、さらに約4時間かけて昭和基地へ飛びます。

昭和基地には常設の滑走路はないので、先遣隊の到着に先だって雪を雪上車で踏み固めて長さ1000mの滑走路が造られます。

雪上に造られた滑走路はDROMLANを用いて昭和基地から離れたエリアで活動する観測隊員を運ぶのにも使用されるほか、DROMLANに参加する他の国の観測隊の飛行機が給油に訪れることもあります。

雪上車だけではない南極の車事情

南極というと年中厚い雪に覆われていて、雪上車やスノーモービルが活躍していると思われがちですが、実は一般的なタイヤで走る車両も南極の昭和基地では活躍しています。

「しらせ」が接岸している間は観測隊員の交代だけでなく建物や観測機材の設置や修理などさまざまな作業が行われますが、この短い期間に東西約1500m、南北約1200mもある広い昭和基地の中で効率的に作業を行うためには車両が必要になります。

「しらせ」が接岸している夏期間は雪が少なく、町でよく見かける4トントラックや軽トラ、フォークリフト、クレーン車なども20台以上活躍しています。

これらの車両は地面が雪に覆われると使用できなくなるため、夏期間以外は倉庫に格納されます。

南極渡航のこれまで

日本の南極渡航の歴史

日本の南極観測の始まりは1910年11月29日に東京の芝浦埠頭を出発した白瀬矗の南極探検隊です。全長わずか33.48mの木造帆漁船に蒸気機関を取り付ける改造をした開南丸に乗った白瀬隊は1912年1月16日に初めて南極大陸に上陸しました。白瀬隊は南極点到達も目指していましたが、これは断念しています。なお、白瀬矗は陸軍中尉でしたが、民間の活動としての南極探検でした。

白瀬隊以降、しばらく南極探検は行われませんでしたが、第二次世界大戦後の1955年に国際的な科学研究プロジェクトである国際地球観測年が実施されることになり、この時日本も南極観測参加の意思を表明します。当初敗戦直後ということから他国の反発に遭いましたが、白瀬隊の実績を挙げるなどしてなんとか参加資格を認められました。

第1次南極観測隊は初代南極観測船「宗谷」で1956年に出発しました。宗谷はもともと海上保安庁の灯台補給船で、急遽南極観測船に改造されました。宗谷は翌1957年1月24日にプリンスハラルド海岸に接岸し、1月29日に上陸した第1次観測隊によって昭和基地が開設されました。現在は60棟以上もの施設がある昭和基地ですが、この時は発電等を1棟含む4棟だけでした。この時初めての越冬も行われ、第1次越冬隊は翌年まで滞在しました。一方、昭和基地を離れた宗谷は分厚い氷に完全に閉じ込められてしまいましたが、当時の最新鋭艦だったソビエト連邦の砕氷船「オビ」号に救出されて帰国しました。

もともと南極観測船として建造されたわけではなく、急遽改造した宗谷では砕氷能力が足りないとみられていましたが、すぐにより適した砕氷船を用意できる見込みがなかったため、第2次観測隊も宗谷を使用することになりました。とはいえ、砕氷能力やその他能力を改善するための改造が行われています。第2次南極観測隊は1957年10月21日に出発しましたが、この年の南極の気象状況は極めて悪く、宗谷は昭和基地に近づくことができませんでした。宗谷に搭載していたセスナ機「昭和号」によって第1次越冬隊は宗谷へ戻ることができましたが、第2次観測隊の先遣隊が昭和基地に渡った後は天候悪化によって空輸が困難になり、第2次観測隊の上陸は断念されました。晴れ間を見て先遣隊を回収した宗谷はそのまま帰国することになります。この時、のちにタロとジロの物語として知られるようになる樺太犬15匹が置き去りにされる悲劇が起きました。

第3次南極観測隊は1958年11月12日に出発します。南極観測は国際地球観測年と終了とともに終える予定でしたが、延長されています。先だって、前年の失敗を教訓に雪上車による輸送体勢から大型ヘリコプターによる空輸を主体とすることになり、宗谷にはヘリコプターの運用能力を増強する改造が再度施されています。当時はまだ人員や物資のすべてを大型ヘリコプターで輸送するというのは前例の無い輸送方法でした。翌1959年1月14日、宗谷は昭和基地から約163kmの地点に到達し、海氷上に設営したヘリポートを拠点に昭和基地へ人員や物資を運びました。ヘリコプターの第1便は前年取り残されて生き残ったタロとジロを発見しています。ヘリコプターは20日間に58便飛行し、昭和基地に57tの物資を空輸しました。このヘリコプター主体の輸送体制は現在の「しらせ」まで受け継がれています。第3次観測隊は無事に1959年4月13日に帰国しています。

大きなヘリ甲板が設けられた「宗谷」

続く第4次、第5次観測も成功しましたが、宗谷の老朽化と宗谷を運航する海上保安庁のパイロット不足が原因で第6次南極観測隊で南極観測を打ち切ることになりました。1961年10月30日に出発した第6次観測隊は翌1962年1月6日に昭和基地まで183kmの地点に到着し、第5次越冬隊の収容と昭和基地の閉鎖を行いました。宗谷は1962年4月17日に帰国し、南極観測船としての役目を終えました。

1963年、南極観測の再開が決定され、宗谷の経験をもとに新たな南極観測船の建造が決まりました。新観測船は海上保安庁ではなく海上自衛隊が運航することになり、艦名は公募で「ふじ」に決まりました。「ふじ」は1965年11月20日に第7次南極観測隊を乗せて初めて南極へ出発しています。この第7次観測隊以降は現在に至るまで毎年観測隊が派遣されています。1968年、「ふじ」で南極に渡った第9次越冬隊の極点調査旅行隊は日本人として初めて南極点に到達しています。

「ふじ」は1982年の第24次観測まで活躍したのち3代目南極観測船となる「しらせ」に役目を譲っています。「ふじ」は宗谷よりも大型で砕氷能力も上回っていましたが、多くの困難に見舞われ、18回中6回しか昭和基地に接岸できませんでしたが、それでも計画されたすべての任務を完遂しました。

3代目南極観測船の「しらせ」は「ふじ」よりもさらに大きく、砕氷能力も「ふじ」を上回る約1.5mの海氷を連続で割りながら3ノット(約5.6km/h)で航行する能力がありました。また、当時海上自衛隊の運用する中では最大規模の自衛艦でした。

「しらせ」は2007年の第49次南極観測まで20年以上もの間活躍しましたが、老朽化に伴い退役することになりました。4代目となる南極観測船の艦名は公募で1位となった「ゆきはら」となることが有力視されましたが、南極に初めて上陸した白瀬矗にちなむ先代と同じ「しらせ」を望む声も多く、「現在使われている艦艇名は付けない」とする方針を撤回して「しらせ」を襲名することが決まりました。なお、海上自衛隊では艦名を人名から名づけることが避けられており、公式にはこの艦名は白瀬矗の功績を称えて命名された「白瀬氷河」にちなんだものです。

2代目「しらせ」は初代よりも一回り大きくなり、当時最大の自衛艦だったましゅう型補給艦に次いで大きい海上自衛隊の艦船となりました。

護衛艦たかなみと並んだ「しらせ」

予算上の都合で初代「しらせ」の退役と2代目「しらせ」の就役まで1年空くことになり、その年の南極観測にはチャーターされたオーストラリアの民間砕氷船「オーロラ・オーストラリス」が使用されることになりましたが、その翌年の2009年11月10日に出発した第51次南極観測で初めて2代目「しらせ」は南極へ航海します。以降現在まで毎年2代目「しらせ」が観測隊を南極の昭和基地へ運んでいます。

強運と奇跡の船「宗谷」

初代南極観測船「宗谷」は「不可能を可能にした強運と奇跡の船」と称えられています。これは困難な南極への航海を成し遂げただけでなく、戦時中数々の危機を乗り越えてきたことにも由来しています。

「宗谷」

「宗谷」の生い立ち

宗谷はもともとソビエト連邦通商代表部の発注で砕氷貨物船として建造されました。1938年2月16日、川南工業香焼島造船所で「ボロチャエベツ」として進水しましたが、日中戦争の激化に伴い引き渡しできなくなり、6月10日に「地領丸」として竣工しました。地領丸には姉妹船が2隻あり、それぞれ「天領丸」、「民領丸」と名付けられています。

海軍特務艦「宗谷」

地領丸はしばらくの間民間会社の貨物船として運航しましたが、海軍に買い上げられることが決まり、1940年2月20日に「宗谷」と命名されました。なお、海軍に徴用された商船は数多ありますが、正式に軍籍に編入された船は宗谷のみです。

宗谷は雑用運送艦として分類される特務艦となりました。宗谷には最先端の測量機材が搭載され、輸送任務に従事するだけでなく、各地を測量して軍機海図を作成しました。最初の任務は北樺太の調査だったものの、その後は主に南方海域で測量任務を行っています。現在でも宗谷が測量して「SOYA」と名付けられた礁が多く存在します。

日米開戦後も南方海域を転々とし、測量や輸送、掃海、上陸支援など多岐にわたる任務に従事し、ミッドウェー海戦や第一次ソロモン海戦にも参加しています。

戦火をくぐり抜ける「宗谷」

戦争が激化する中、宗谷は何度も危機に見舞われながら何度も生き残ったため、「強運艦」として知られるようになります。

1942年にはミッドウェー島沖やラバウルなどで何度かB-17爆撃機の攻撃に遭いましたが、難を逃れました。

翌1943年1月にはブカ島沖で測量中に敵潜水艦の攻撃を受けて魚雷1本が命中しましたが、不発だったため再び難を逃れました。その後も敵航空機の機銃掃射や潜水艦の雷撃に何度か遭いますが、大きな損害はありませんでした。

1944年1月、宗谷がブラウン島から燃料や食料の補給のためクェゼリンに向けて出港の用意をしていると前艦長が訪れてクェゼリンは食料が不足してると忠告したため、トラック島へ目的地を変更しました。そのすぐあと、クェゼリンにアメリカ軍が侵攻したため、宗谷は難を逃れた形になります。なお、測量任務が残っていた測量隊はここで宗谷から下船することになり、エニウェトクの戦いに巻き込まれて全滅することになります。

トラック島へ移動した宗谷は2月、トラック島空襲に遭います。宗谷は回避行動中に座礁し、敵機1機を撃墜したものの死傷者が多数出て弾薬も尽きたため、総員退艦命令が出されます。しかし、満潮により宗谷は自然離礁して漂流し始めたため、一時避難していた乗組員は宗谷に再び乗り込んで応急措置を実施しました。500機以上もの敵機による猛烈な空襲で徴用商船32隻が撃沈したものの、宗谷は沈没を免れました。ただし、この時艦長は艦放棄と測量隊全滅の責任を問われて更迭されました。

その後、宗谷はサイパンを経て横須賀へ帰還しました。敗戦色も濃厚になり、宗谷が測量すべき海域も支援すべき上陸作戦も無くなってしまったため、測量艦から輸送艦に改装されました。改装後は北千島への輸送任務に従事します。この時姉妹船である天領丸と行動を共にしますが姉妹船がともに行動するのはこれが最初で最後となります。

機関の不調に悩まされた宗谷は翌1945年2月まで修理を繰り返しますが、そののち輸送任務に復帰します。この時はすでに本土近くでも敵艦載機や潜水艦が活発に行動していて輸送船団が次々と撃沈される状況になっていましたが、宗谷は僚船が撃沈されても帰還しました。

8月2日、横須賀でドック入りしていた宗谷は空襲中に被弾した敵機が落とした補助燃料タンクが偶然命中し、機関室内に気化したガソリンが充満しましたがドック入り中で火気がなかったため爆発を免れました。翌日宗谷は標的艦大浜とともに横須賀を出港し、女川に入港します。大浜を残して輸送任務のため室蘭へ出港した宗谷は翌朝敵機動部隊に遭遇するも急に濃霧が立ち込めて宗谷は八戸へ逃げ込むことができました。宗谷を助けたこの霧は乗組員に「神の衣」と呼ばれました。なお、この敵機動部隊はその後女川を空襲しており、大浜が撃沈されています。

室蘭に入港した宗谷はそこで終戦を迎え、最後の任務として横須賀へ石炭を輸送した後海軍籍を除籍されました。

南極へ行くまでの「宗谷」

1945年10月1日、宗谷はGHQによって大蔵省へ移管され、海外に残された日本人を本土に帰還させるための復員輸送艦として使用されるようになります。この時船名は宗谷丸に改名されています。当時は元稚泊連絡船で同名の宗谷丸が青函連絡船で運航されていたため、一部の史料ではどちらの船をさしているのかわからなくなっている場合があります。翌1946年8月31日には船主が大蔵省から民間組織の船舶運営会に変わり、引揚船になります。1948年11月に引揚任務を終了するまでに宗谷丸は中国、台湾、ベトナム、朝鮮、樺太などから19000人以上を運んでいます。

引揚任務終了後も宗谷は輸送業務に従事していましたが、1949年8月1日に正式にGHQから帰還業務を解かれました。この時、宗谷丸は海上保安庁の測量船として使用されることが内定していましたが、急遽灯台補給船の代船が必要になったことから宗谷丸を灯台補給船として使用することになります。

宗谷丸は1949年12月12日付で海上保安庁へ移籍し、再び「宗谷」に改名されました。宗谷は各地を巡って灯台補給任務を行ったほか、1953年12月には日本に返還されることになった奄美諸島に約9億円の現金と通貨交換業務要員を運ぶ異色の任務にも就いています。1952年には船名はひらがなの「そうや」に改められました。灯台補給船として活動した約5年間、「そうや」は灯台守からは「燈台の白姫」や「海のサンタクロース」と呼ばれ親しまれていたといいます。

「宗谷」の海上保安庁のファネルマーク

南極へ行く「宗谷」とその後

1955年12月24日、「そうや」は初代南極観測船として使用されるために灯台補給船としての解任式が行われ、同日大型巡視船「宗谷」となりました。南極観測船として使用する船を選定する際には青函連絡船の宗谷丸も候補に挙がり、大きさや砕氷能力も勝っていましたが、改造予算の問題や耐氷構造に加えて数々の困難を乗り越えてきた強運も加味されて宗谷が選ばれたといわれます。

「宗谷」の艦橋

宗谷は1962年に第6次南極観測隊を乗せて帰国するまで6度南極まで往復しました。

南極観測船としての任を解かれた宗谷は不要になった観測機器や航空機関係の装備を撤去して通常の巡視船として第三管区海上保安本部所属となりますが、当時の海上保安庁最大の船艇であり、南極観測船としてよく知られていたことから、海上保安庁を代表する特別な存在であり続けました。

1963年4月1日北海道第一管区海上保安本部に移籍し、流氷調査や漁業監視、救難、医療支援などに従事しています。竣工から40年が経過した1978年7月、ついに宗谷の引退が決まります。全国14の港を巡る「サヨナラ航海」を実施した後、10月2日に竹芝桟橋にて解役式が行われました。解役式には歴代の海上保安庁長官や歴代の船長、南極観測隊員として乗り組んだ者など宗谷にゆかりある人たちが出席しました。海上保安庁長官自らが巡視船の解役式に出席した唯一の事例ともなっていて、宗谷がいかに海上保安庁で特別な船だったかが伺い知れます。

「宗谷」の船室に残された別れを惜しむ落書き

第一管区海上保安本部に所属していた間、宗谷は船125隻、1000名以上の救助実績を上げ、「北の海の守り神」と呼ばれました。宗谷の代替船としては新たな砕氷巡視船「そうや」が就役しており、現在も北の海を守っています。なお、「そうや」は現在では最古参の巡視船であり、2019年3月にはその運用期間が先代「宗谷」の約40年4か月を上回っています。

保存船「宗谷」

引退の決まった元南極観測船の「宗谷」は、各地の自治体から誘致されましたが、保存には莫大な維持費がかかるため保存先は慎重に検討され、東京お台場の船の科学館で永久保存されることが決まりました。

南極観測船時代の船体色に塗り替えられ、1979年に一般公開されました。2017年、隣接して東京国際クルーズターミナルが建設されるのに伴って係留場所が変更され、同時に修復工事も行われて現在に至ります。

船の科学館に係留された「宗谷」

南極に渡った三毛猫

第1次南極観測隊には一匹の船乗り猫が同行しました。「たけし」と呼ばれるこの猫は遺伝的に珍しいオスの三毛猫で、オスの三毛猫を船に乗せると縁起が良いという言い伝えがあることから日本出発直前に隊員に預けられました。なお、乗船時はまだ名前がなく、船内の公募で観測隊隊長の永田武にちなんで「たけし」と命名されました。

「たけし」は犬ぞりの先導犬として同行していた樺太犬とは異なり純粋にペットとしてかわいがられていましたが、昭和基地にも同行して第1次越冬隊とともに1年間南極に滞在しました。

翌年、宗谷が昭和基地に接近できなかったことで第2次越冬隊の上陸が断念され、タロとジロをはじめとする樺太犬15匹が置き去りにされましたが、「たけし」は第1次越冬隊とともにセスナ機で宗谷に帰還できました。1匹約40kgの樺太犬と異なり、3.5kgしかなかった「たけし」は重量制限のあるセスナ機に乗れたものとみられます。

「たけし」は帰国後は「たけし」をひときわ可愛いがっていた通信隊員の家に引き取られましたが、1週間過ぎたある日脱走して行方不明になってしまいました。猫はもともと帰巣本能が強いため、「たけし」は長らく過ごした昭和基地へ帰ろうとしたのではないかと言われています。

なお、1991年に採択された「環境保護に関する南極条約議定書」ですべての動物の南極への渡航が禁止されたため、現在は動物を南極に連れていくことはできなくなりました。

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