このウェブサイトはご利用の端末での閲覧に対応していません。
This website does not support your device.

人々がウサギに熱狂したウサギバブルの顛末

記事Jan.28th, 2023
人々がウサギに熱狂するあまりその価格が暴騰し、最終的に兎税が課される事態にもなった明治のウサギバブルの話。

人々がウサギに熱狂したウサギバブル

明治4(1871)年ごろ、西洋から持ち込まれた外来のカイウサギを「兎會」と称して持ち寄ってその値段や毛色を争ったり、取引したりすることが流行り始めました。

翌年の明治5(1872)年になるとブームはさらに加熱していき、ウサギを買い求める人の増加によってウサギの価格が高騰しました。ブームは東京の富裕層を中心としていましたが、身分を問わず加速していき、街中では籐の篭にウサギを入れた人々が行き交うようになり、町内の半数以上の家がウサギを飼育していた地域もあったといわれます。

徳川幕府が倒れて西洋化が急速に進んでいたという時代背景もあり、珍しい西洋のウサギを飼育することは一種のステータスとみなされました。人々は白地に黒の斑点がある「黒更紗」と呼ばれるウサギに熱狂し、珍しい種のウサギは600円の高値で取引されました。当時の下級の公務員の月俸が6円~10円だったことを考えるといかに高額でウサギが取引されていたかがわかります。餌にはオカラを与えるのが良いとされ、豆腐屋では豆腐よりもオカラの方がよく売れるという現象も起きました。

明治6(1873)年、空前のウサギバブルはいよいよ頂点を迎えますが、ウサギの飼育に熱を上げて家業をおろそかにするもの、ウサギで一攫千金することを目論んで破産するもの、ウサギの取引をめぐる殺人や詐欺事件などが続出し、社会問題にも発展したことから、行政はウサギバブルの鎮静化に乗り出します。

1月18日、東京府から「兎会ト唱ヘ多人数集会売買スルヲ禁ス」として「兎會」を禁止する布令が出されます。それでもウサギの人気は衰えず、闇取引によってウサギは取引され続けたため、12月7日には以下のような布達が東京府から区戸長へ出されます。

  1. ウサギの売るものと買うものは双方とも区扱所に届け出を行うこと
  2. 区扱所は所持者の姓名を記載して毎月税金を取り立てること
  3. ウサギ1羽につき毎月1円の税金を納めること
  4. 無届けでウサギを飼育する者には1羽につき2円の過怠金を科すこと
  5. 大人数で集まってウサギを競売することはこれまで通り禁止であること

兎税とも呼ばれるこの税金が課されることが決まるとウサギの価格は一夜にして暴落し、ウサギバブルは一気に沈静化します。所持するだけで高額の税金がかかり、二束三文でも売れなくなったウサギを手放す者が相次ぎました。ウサギを買い集めてその毛皮で帽子などを作ったり、ウサギ肉の鍋の屋台など新たな商機を見出す者も現れましたが、野や川に捨てるものが相次ぎ、多数のウサギの処分に困って川に身を投げたものもいたといわれます。

この後も何度か布達は改正され、明治9(1876)年5月9日の改正では無届けでウサギを飼育する者に過怠金に加えて隠匿期間分の税額の追徴とウサギの没収を科し、さらに密告者には過怠金の半額を給付することとして規制が強化されました。

兎税が有名無実化するほど飼育者が減った明治12(1879)年、東京府は6月30日を以て兎税を含む府税徴收諸規則ノ儀を廃止します。これによってウサギの再流行の兆しがわずかにみられましたが、これもすぐ沈静化し、ウサギバブルは完全に幕を下ろしました。

再び人々がウサギに熱狂するアンゴラ狂乱

ウサギバブルから約60年経った昭和5(1930)年、再び人々はウサギに熱狂します。明治のウサギバブルは観賞用ウサギのブームでしたが、今度は長い毛を毛糸や毛織物の材料として利用することを目的に改良されたアンゴラウサギの投機的流行で、この現象はアンゴラ狂乱と呼ばれるようになります。

きっかけとなったのは昭和4(1929)年10月16日発売の雑誌『主婦の友』11月号に掲載された記事「新副業純毛種アンゴラ兎の飼ひ方」だったとされます。記事のもととなったのは養兎業者が書いた実用的な飼育法の紹介のはずでしたが、それでは面白みに欠けるとして記事掲載時には「簡単に儲かる」ことが強調されたものに改変されていました。当時は世界恐慌の影響が日本にも及び、深刻な不況下にあったため「簡単に儲かる」とされたアンゴラウサギに人々は飛びつきました。

明治のウサギバブルは東京や大阪の都市部を中心とした流行でしたが、アンゴラ狂乱は全国的な広まりを見せ、各地に次々とアンゴラ屋と呼ばれる養兎場が設立されました。第一次世界大戦後、欧米では採毛を目的としたアンゴラウサギの養兎が盛んになっていましたが、日本での利用はまだ進んでおらず、アンゴラウサギの供給量はごくわずかでした。買い求める人の急増とともに価格は暴騰し、親ウサギは数100円、子ウサギでも40円から70円の高額で取引されました。それでも子ウサギが生まれればすぐに元が取れると考えて購入するものが続出しました。

アンゴラウサギを販売するアンゴラ屋の急増により国内で生産されるウサギだけでは需要が満たせなくなり、海外からも盛んに輸入されるようになり、「外国産」と銘打って付加価値がつけられたアンゴラウサギは人気を博します。

ところが、外国産のアンゴラウサギが珍しくなくなると、徐々にアンゴラウサギであれば何でも良いという風潮になり、当初は一等品だけが取引されていた外国産アンゴラウサギも海外では通用しないような三等品も取引されるようになりました。

そうやって無計画な繁殖や海外からの安価なアンゴラウサギの流入により、国内のアンゴラウサギの品質は低下していきました。アンゴラウサギの売買に夢中になって家業を疎かにするものの続出や低品質のアンゴラウサギを高値で売りつける悪質なアンゴラ屋の増加が社会問題となり、ついには昭和6(1931)年に農林省副業課から一般にアンゴラ達示と通称される次のような趣旨の通達が出されました。

  1. アンゴラウサギの将来についての見込みは確定できないが、今のところは毛がもたらす収益のみでは高価な種ウサギの元をとることは困難である。
  2. 生まれた子ウサギを種ウサギとして販売すれば現在は相当の利益を得ることはできるが、これは永続するものではなく、一般の農家が行うのは困難である。
  3. わずかばかりの資産をこのような事業に投資するのは農家として危険であり、アンゴラウサギの飼育は時期尚早なので農林省としてはこれを推奨しない。

アンゴラ達示が公になると途端にブームは下火になります。一時はアンゴラ屋の広告が紙面を飾っていた新聞や雑誌もアンゴラウサギに関する否定的な記事を掲載するようになり、アンゴラウサギの価格は瞬く間に下落しました。春には100円で取引されていたアンゴラウサギは夏になるといくら値下げしても買い手がつかないようになり、アンゴラ屋は次々と倒産しました。

そうやって同年の冬頃にはアンゴラ狂乱は幕を下ろします。

兎毛の需要がないままに異常な流行を見せたアンゴラウサギの養兎ですが、東京アンゴラ兎毛や鐘淵紡績といった企業が兎毛工業に参入し始めると徐々に採毛目的の養兎業の基盤が整いはじめ、昭和9(1934)年に農林省がアンゴラウサギの養兎を奨励する通達を出し、ようやく健全な産業と認められました。

一番上へ